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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

29 多田富雄の叡智(下)

著者の晩年の作品に、「ニコデモ新生」(『残務整理―昭和の青春』所収)がある。
大学の医学部に入って郷里の医者の家を継ぐつもりだった。しかしそのまま田舎の開業医になるのも何だからと、自分をモノトリアムな状態にしたいと思って大学院の病理学の教室に入った。そこで毎日岡林先生の指示で、二十羽の兎の鼻に開けた穴に卵の白身を1㏄ずつ注入していった。異物である卵白に対しての免疫反応の実験だった。実験といってもそれだけで、あとは暇だから昼寝したり小説を読んだりしていた。
そんな風変わりな実験を始めてから一年以上たって、一匹の兎に自己免疫疾患の典型が現れた。実験は成功に帰した。
先生は、こんな無謀な実験に没入することができたのも筆者がほんの腰掛けのつもりだからで、知恵がないからできたんだと褒めたような貶したような評価を下した。
ところが次の成功例が現れない。筆者は思い余って、先生にあの実験に再現性がないと告げると、先生から聖書のニコデモのキリストとの問答(ヨハネ福音書三章)を読むことを勧められた。
キリストがニコデモに向かっていう、
「肉から生れるものは肉であり、霊から生れるものは霊である」 
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」
そこでニコデモが「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と疑いを抱くのに対して、
「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。
わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」
と諭す場面だ。
先生がどうしてこれを言ったのか、そのときには分からなかった。それに気づいたのは、先生が亡くなってからのことであった。
その後筆者は、胸腺の細胞に免疫反応を抑える働きがあることを発見し、免疫学の世界的権威になっていく。
先生は私に何を伝えたかったのか?
「そうやすやすとわかってもらっては困る」
「いいか。何かを発見しようとするなら、文献なんか読むな。そんなものにはなにも書いてない。自分の目で見たことだけを信じろ。わしの言うことを、ゆめゆめ疑うことなかれ」
「科学論文だって、書いた者の個性が出るように、一言一句真剣に書かなければいけない」
こうした先生の一言が、ニコデモへのキリストの説教とダブって今でも私を鼓舞しているように感じられる。

あれは1970年代の末だったか、ヤマギシの有精卵など実顕地生産物の供給活動が始まった頃の研鑚テーマに次のような一節があった。
「実顕地生産物 肉より産れるものは肉 霊より産れるものは霊」

出典はニコデモの新生問答だったのだ! 当時はチンプンカンプンの思い出しかないが、はたして今はどうだろうか? 
ここでの「肉」を形ある物、「霊」を形のない心に分けるならば、ここから二つの考え方が引き出される。一つは、物が豊富になれば礼節を知り幸福になるといった物が先だとの考え方。もう一つは、心の方から解決すればやがて正しい物の考え方が出来て本当の現象となってくるという考え方。要は、形ある物からの出発か目に見えない心からの出発かのあとさきのテーマである。

ヤマギシズム理念からすべてをいとも簡単に「割り切る」実践を、次元の転換をじつは迫られていた!?

振り返れば、肉の観点に立ったまま、肉を現実、霊を抽象的観念と見なして、混線・混同しつつ自他を傷つけ合う自己欺瞞の渦中に追いこまれてきた。霊は肉の対句ではなく、異質なものだった!

それはさておき、多田さんは科学における創造性を、階層や境界を越えた真理の感動的な発見に見ておられる。
このことは専門分業化した社会についてもいえると思う。現代では高度に細分化専門分業化した各部門間の調整ぐらい難しいものはない。何よりもまず自分の権益を守り優先する考え方で社会が構成されているからである。
だとしたら、階層や境界間の臨界条件を越えた事実の実証は如何にして可能なのか?

免疫学の泰斗多田さんはいう。生物学の特質は、生命という全体にどこかで繋がっているという認識にある。小部分の研究が、小部分だけで完結しないのが生物学だからだ。すべての発見は全体の問題に「参照」される。
これこそかつて恩師・岡林先生の疾病観でもあった。「病変の局所だけ見るな。背後にある全体を見よ」

理想社会、ヤマギシズムでの多数のそれぞれの特徴のある専門の人たちで組み立てる完全分業一体社会で、私たちが今まさに取り組んでいるテーマ、「一体」から出発して「一体」の実態を創り上げていくという日々の実践に通じていくものがある。
そこでの「一体」と「分業」を越えた真理の感動的な発見こそ、私たちの「と」に立つ思想から産まれてくるものだ。このテーマの追究と顕現こそ、心と物、目的と手段等々に繋がるもっとも切実に欲求されている今日的課題として私たちの前にあり続ける。

というのも、多田さんは一貫して「生物の階層性」という概念で近代科学の方法を批判されている。たとえば人間は細胞からなっている。それ故人間やその病気を理解するためには、細胞の性質を知らなければならない。どのようにして知るのか? 細胞機能を受け持つ分子の構造を解明すること、そしてそれを操る遺伝子のしくみを理解することが必要とされる。こうして階層をより低いものに還元することによって、上の階層の現象を説明していくのが近代科学の方法だ。
しかし、下の階層に還元しただけでは、ものを科学的に理解したことにはならない。細胞をどんなに微細な分子に還元しても、細胞の意味は分からない。つまり細胞は分子の機能の単純な総和ではない。細胞になってはじめて現れる機能があるのだと。上の階層は、下の階層のルールに拘束されてはいるが、新しい固有のルールをもっている。還元主義では、この新しいルールは理解できない。

だとしたら、階層や境界を越えた全体を貫いているものとは何か?

さきに紹介した山岸巳代蔵のいう、
「人間とは、いわゆる個人を指すものか、結合夫妻を単位とするか、人間社会を指すものか、宇宙全体を指すものか、或いは基本単位の人間細胞を指すものか、それが結合した受精細胞か、それとも細胞を合成している元の物質及び機能を単位とするか」に重なる個所だ。そこを貫くものは、
「宇宙万事万物健康でない限り、人間も健康でない」とする「健康」概念である。

私たち「と」に立つ観点からは、
「人間も自然と一体のもので、個人とか、夫婦とか、社会とか、全人類とか、自然とかいうのは、みなその一体の中の一つの単位の呼称であり、個人をなすものに、物もまた身体各部それぞれのものが寄って個人単位の一体を形成し、その各部もまた各々の細胞や血液、或いは体液その他の一体で形成され、細胞そのものも、いろいろの要素によって細胞一体単位を形成している。生命・感覚・記憶・思考・各種機能等もそれぞれの要素として各単位を構成しているもので、絶えず要素は離合集散し、活動し、或いは停止したりする」
という正常・健康な状態についての観方だ。

そうした自然全人一体観からおのずと湧いてくる親愛の情によって全人類間の紐帯となすことで現れる個体としての自己を、理想社会とも呼んでいる。

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