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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

鈍愚考(10)

〝性としての人間〟像
レーニンの演説1920年5月5日

1960年頃、ソ連の社会主義革命の行き詰まりをみて山岸巳代蔵は言う。

“月の世界へ何ぼ行けても、やっぱり解決できないものがある。問題を解決していったらよいのに、自分達で手掛けているもので解決していこうとするので出来ない。”(「第1回理念研鑽会記録」1960.7)

未解決で残されている一番肝心な部分とは何か?
1960年4月ソ連大使館員が春日山を視察しているが、そこで「おかゆを食べていても楽しい」という実顕地メンバーの発言に、大使館員の「それは観念論だ」と応えた記録が残っている。何の根拠もないやせ我慢として聞いたのだろうか。やがて物心豊満な豊かな明るい世界が来ることが見えての発言だったのだが……。
いまふり返ると、こんな一挿話からでも失敗の原因の一つが覗かれるようでじつに興味ぶかい。唯物論(マルクス・レーニン主義)も「物が豊富になれば人間は礼節を知り、世の中がよくなり幸福になる」と考える一つの観念論的な考え方にすぎないのだから……。
しかし同じ考え方の一つならば、物に満足すれば心の糧を求め、それにも満ち足りた世界を指向するのが本来の人間の考え方ではないのか?
ここに人間革命を並行しない社会革命の限界を自分らはみている。
このあたりを指して森崎さんは

“『資本論』は商品の分析から始まっていますが、分析の対象である商品が貨幣という共同幻想に支えられていることをマルクスさんは考慮しませんでした。『資本論』の最大の誤算がここにあります。”
“最大の謎である貨幣の共同主観的現実には一切手をつけていません。”
“『資本論』は貨幣という共同幻想の分析を通じて商品が交換から贈与へと転換するしかけとしくみこそ書かれるべきだったのです。”(「歩く浄土200:親鸞・マルクスとの架空座談」)

とふり返りつつ自分らの進むべき新たな道しるべを創ろうとされている。
そう言えば吉本隆明(1924-2012)さんも最晩年になって次のように発言されていた。

“一人一人の男と女が好きあって家族ができることの重要さは大変なものだという考えを持ってきました。それをなんとか理論化できないかと思い、対幻想の領域とした。
家族がそのまま親族や集団、社会に拡張して発展すると考えることはせずに、むしろ閉じていきながら、逆に人間を支えるものであることをしきりに考えました。
自分の人生にそれをどこまで当てはめることができるのか、自分ではよく分かりませんが、そういう思想を支えにしてきたことは確かですね。”
“個人より狭い「固有の個人」を意識しなければうまく解けないことがあり、そこが問題だという気がします。(略)それはとても大事なものですが、僕には明瞭に分からないもので、絶えず悩まされるものです。”(「江藤さんについて」『江藤淳1960』2011.10)

そしてそこから〝固有値としての自分〟という言葉を編みだされる。
この間の自分らの文脈に引き寄せれば
人は、人と人によって生まれ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能だ。しかも遠い離れた人との結合ほど良縁で、優秀な子孫が産まれる事実は、幾千里離れていても夫であり妻であり、兄弟・親子の間柄あることを示している。つまり人と人との社会連繋の切ることの出来ない真理性は、そこに人の情が自ずと湧いてくる〝性としての人間〟像としてあらわれるところにあるのではなかろうか。
そこに「わが一体の家族」をみてきた。
吉本さんのいう〝固有値としての自分〟とは、〝性としての人間〟像と重ならないだろうか。生涯にわたって吉本さんが考えあぐんだ〝自己幻想と共同幻想の矛盾・対立・背反〟とその解き方は、〝性としての人間〟像を自らの出発点にすることで自ずと解消されるのではなかろうかと。
先の吉本さんの発言にあった

“家族がそのまま親族や集団、社会に拡張して発展すると考えることはせずに、むしろ閉じていきながら、逆に人間を支えるものであることをしきりに考えました。”

とされるその〝拡張〟の方向についてである。
今もっとも解明していきたい主題はかつての「天声人語」子の発言、
「▼”私はあなた、あなたは私”という怪しげな論法で、男女関係などにも不審な点があるようで」(鈍愚考1)
からの”私はあなた、あなたは私”という怪しげな論法の〝拡張〟についてである。
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