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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

32 こころが踊る場所

「山岸式養鶏会も、そうした目的達成のための一環として、それを具現化する役割をなすもので、養鶏そのものは、全体経済面の一小部分に過ぎず、社会構成の上からも、一般から見て関心は薄いのですが、こうした省みられない一隅からでも、社会全体を動かす始動力となることが出来るのです」(山岸巳代蔵)

たとえば「AとB」があるとして、Aの立場やBの立場に立ってそれぞれの利害を主張し合うのが今の社会の構図だ。そこでそうした立場を通さずに、謂わば未だ手つかずだった「と」という場所に立つことで見えてくるものがあった。そのことを記述するのが私たちの一貫するテーマだ。

先日も本ブログ「青木新門さんとの出逢い」で、じぶん勝手に

「ところがある時から、死者の顔のほとんどが安らかな顔をしている事実に気づいた。よくできた仏像とそっくりだ。『これって一体何なのだろうか』
そんなことをくり返しくり返し考えていると、ふと生と死や善と悪を超えたところ、双方とも見えるそんなところがあるのではなかろうか。釈迦や親鸞も、そんなところから言葉を発しているのではないか! そんな気づきも生まれてきて心躍った」

と青木さんの心中をおもんぱかるような文言を記したことがある。ふと、映画「おくりびと」の中での、事務員さんが主人公にいうセリフと重なったからだ。

「納棺ってね、昔は家族でやっていたものなの。それが葬儀屋さんにまわされるようになって、そこからまた、うちみたいな会社が出来たの。言ってみれば、超隙間産業……」

そうなのだ。誰からも省みられない一隅、いわば超隙間、むしろ周囲から忌み嫌われるような領域、そんな未だ手つかずの「と」という場所にこそ、「生と死や善と悪を超えたところ、双方とも見えるそんなところ」が、じつは心躍るような世界が、あったのだ!といった発見の歓び。

「金の要らない仲良い楽しい村」づくり。
「私は一卵よく世界を転覆し得ると大言しています」等々。

今迄の社会通念から観ると、誇大妄想狂の食言屋の物言いに過ぎない。アホじゃなかろうか? もうでたらめもいいところ。

しかしはたから見たらあんな不自由で窮屈そうな暮らしと思える中に、案外ホントの自由があったりするのだから。そんなふうに考えると、ふと心が救われるような……。

AでもなければBでもない、「と」という場所がある。そこは真面目にやってみる以外にない「もの」からできている。
「見ずして行うなかれ、行わずして云うことなかれ」
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