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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

33 見ずして行うなかれ!

そこで「見ずして行うなかれ、行わずして云うことなかれ」の中へと入っていこう。
この一節は1953(昭和二八)年「山岸養鶏会」が発足した年の暮れ、名古屋の養鶏専門誌『家禽界』の記者が京都地方の孵卵業者の得意先回り中に風変わりな養鶏の話から、その不思議な男、山岸さんに三日三晩旅館で書き上げてもらった『山岸式養鶏法』の巻末に記されたものだ。

「風袋が多くなり過ぎました〝見ずして行うなかれ! 行わずして云うことなかれ!〟の数語に尽きるものを。では又 (1953.12.)」

だからここでの「見る」とは、その後1955(昭和三〇)年7月に刊行された『山岸会養鶏法 増補改訂版』の中の以下の一節に対応するはずだ。

「この養鶏法は、人類一体を真のあり方とし、全人幸福親愛社会の実現を目指すもので、ヤマギシズム社会観に立って見ると、容易に理解し、その線に副ってこそ成功するのです。(略)
個々人主義を肯定して観察し、または行っても絶対に判らなく、批判も結果も誤ります」

ここでの「ヤマギシズム社会観に立って見る」の「見る」のことだと思う。この「見る」は、「個々人主義を肯定」する観方とは全く次元を異にするはずだ。

この間たとえば「あるとない」の間の「と」に着目して、「と」からの出発・「と」に立つ生き方・そこに立って見ると・ 「と」に立つ精神・繋がりを知る精神・「と」という場所等々の表現で、ヤマギシズムでいう「一体」についての考察を広げてきた。もちろんその真意は、「形に現れるものを見てでなく、形に現れないものを観てやるものでありたいね」といった発言に込められた世界の実顕にある。
それゆえ今頃になって次のような一節が納得されてくるのだ。

「ヤマギシズムの〈実践哲学〉では、最終目的の実現は。実は出発点にかかっております。出発点と目的とは直線コースでなければ成立しないのです。
目的のためには手段を選ばないとか、山頂への道は幾通りもあるという考え方には、賛成できないのです。どんな作り方をしても、米さえ採れたらよいではないかといいますが、なるほど米は採れても、作り方によって米の内容・質が違うのです。結果よりも過程を重んじるのも、高度の結果を期待するからで、その道を通る以外には到達できないという一本コースなのです。
目的に到達するのが難かしいのでなく、その目的への出発点に立つことが容易でないのです。この出発点に立ち一歩踏み出すことを、ヤマギシズム用語で"ゴールインスタート"と解し、また〈革命〉ともいうのです」(『前涉行程論Ⅰ』)

だとするならば、次に「一歩踏み出す」とは何なのかが問われてくる。何を「やる」ことが「一歩踏み出す」ことにあたるのだろうか? そもそも実践って何だろう?

さきの個々人主義からの我利行為を「やって」みせるよりも、無為徒食、天井を見詰めて寝ている方がマシな場合もあるからである。
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