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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

35 安藤昌益の実践(上)

「現在の国境は夜の囲いであり、あまりにも厳めしく、やがては唯の地域名程度の昼の画線になり、今の経済機構も、政治及び社会組織も、人の心も皆、明るい昼の姿に変ります。政庁・官職にあるもの、手掛けている学問・芸術・職業も、法律・財産もそのままで、益々伸展合適する自由があり、自動的に少しも波乱なしに、理想社会に生長します」(山岸巳代蔵)

一昨年『農業が創る未来―ヤマギシズム農法から』(村岡到編 ロゴス)の書に「『自然と人為の調和』とは何か」と題した一文を寄せたことがある。その中で次のような一節などを書き記して結文とした。

「このようにヤマギシ会の農業――「自然と人為との調和」とは、貨幣経済の中の業態としての農業とは全く次元を異にする。
始まりは人間生存の源泉、衣食を、人為を尽くして自然にもとめるところにあった。そこに本来の農業を見ることができる。農業の前にある農の世界。そんな位置にある農の世界に立ち帰るところから出発している。そこに立って始めて観えてくる農の豊かさの世界がたしかにあるようなのだ」

ここでの「本来の農業」とか「農業の前にある農の世界」と表現されるものについてのイメージを、もっともっと鮮明にふくらませていきたいのだ。自分のものにしていきたいのだ。あの時点での「そこに立って始めて観えてくる農の豊かさの世界がたしかにあるようなのだ」ではなく、確かに「有る」といえるところまでいくのだ。

先の「『自然と人為の調和』とは何か」と題した一文を記した時点では、『「自然」概念の形成史』(寺尾五郎著)を通じて知らされた江戸中期の思想家・安藤昌益の「直耕」概念での「直」に興味をもったが、如何せんその先がふくらまなかった。
しかしこの間、「と」に立つという「実践」概念をあたためているとナント安藤昌益の「直耕」概念がぼんやりとだが浮かんできたのだ! 

寺尾五郎氏によれば、日本において対象的世界を「自然」と呼んだのは、安藤昌益が初めてであるという。それまでの「自然」の語は、すべて「自(おのずか)ラ然(しか)リ」の意であり、自然界のことではなかった。省益は「自然」の語を、「自(ひと)リ然(す)ル」と訓ませ、人も含んだ全自然は永遠の自己運動の過程にあるという哲学思想を独創的に編みだしたのだという。それゆえ「直耕」とは、自然も「ヒトリスル」し、もちろん認識者である私(人)も「ヒトリスル」のであるという謂わば「自然全人一体」理念に繋がる内実をともなっているのだ。何をもって「ヒトリスル」のか? このように問うてみるだけでも、「直」のイメージがふくらんでくるようなのだ!

こうした自然哲学を基盤に著されたのが主著『自然真営道』である。その中の第二五「良演哲論」巻に「私法盗乱の世に在りながら自然活真の世に契(かな)う論」という一章が設けられている。社会思想家としても面目約如たるところだ。しかもこれがまさに私たちが今直面している「資本制社会の中に理想的な社会を創る」課題とピッタシ重なるのだ!

だとするならば、安藤昌益のいう「契(かな)う」と先の山岸巳代蔵のいう「益々伸展合適する自由」の本意は何なのだろうか?
こうした「契(かな)う」も「伸展合適する自由」も同じく「直」に通じていく実践概念にちがいない。今少し「忘れられた」思想家・安藤昌益の世界に踏み込んでみよう。
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