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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

37 安藤昌益の実践(下)

「人間はややもすると、無形・無感のものでも文字や言葉や形にして掴まえないと不安定のように錯覚しやすいものだが、それは出来ない相談で、文字や言葉や形を示し、これこれのようなものだ、と連想資料として云うと、形のあるものかのように、また文字や言葉で云い表せるものかのように思い過ごして、かえって無形・無感であるものをそのまま素直に受けとれない。形象知覚外のものは知覚できない、知覚外のものだと知覚した方がわかりやすいと思うのだが、形のないものを形のあるものかのように思い込んで、形を追い求めても、徒労に帰し、結局掴めないことになる。
そこに間違いの原因があり、いつまでたっても、物にならないのである」(山岸巳代蔵)

ここで自分らのいう実践概念について一言触れておきたい。つまり実行とは実際にからだを動かすというよりも、それだけではややもすると目先の「意味的な」ものに拘泥して手段と目的との取り違えてしまいがちなのだが、この世界はそうした勘違いの「やる」ことで満ち溢れているが、そうではなくて、目的と手段が一つに繋がるような概念をここでは指している。そのためには真目的を「知る」ことと「やる」ことが結びついていなければならない。「心的な」理念に裏打ちされた回路が見出されるべきなのだ。ここがミソなのだ! つまり「知る」機会が日常的に設営されていなければならない。私たちのいう「研鑚」がそれである。研鑚の「場」があることで、真目的実現へと「やる」ことが調正されていく。どんな「場」に創り上げるか。そこに自分らの言葉でいうところの「公意行」の実践の「場」が立ちあらわれてくるゆえんだ。

かくして安藤昌益は、当時の国内外の学、思想、宗教のほとんどを否定の対象とする。曰く――
「文字で書かれた書物のことごとくは、天真の妙道を盗むための私作だ」
「わが身を離れた遠くに思案工夫を求めるべきものではないのだ」
「すべて古聖人・釈迦・老荘・聖徳太子などの万巻の書にある言葉は、明徳・明心・明知ばかりを語って互性の備わりを知らない。だからみな横気(邪汚の気)の誤りであり、人が罪に落ちる根源である」
「鳥の世には、金銀の通用がないので、欲も迷いも盗みも乱兵も、たえてないのである」
「人間に病気があることはなかった。活真には病気というものがないからである」等々。(「自然真営道」野口武彦現代語訳 )

こうした一見荒唐無稽のような言説がえんえんと続く。ここまで徹底されると小気味よいくらいだ。その通り、その通りと借りものの受け売りの知識をふりまわしたくなるわが身を振りかえざるを得なくなってくる。

そして自分らの「金の要らない仲良い楽しい」実顕地づくりでの、医者の要る間は要る、金の要る間は要る、しかし要らんようになったら要らん。病気なければ病気治す医者は要らんように、真に科学究明して「要るものは要る、要らないものは要らない」世界の顕現へとおのずとみちびかれていく。

「軒端のスズメや、菜の花に舞う胡蝶でさえも、金を持たないで、何らの境界も設けないで、自由に楽しく舞い、かつ囀っている。権利も主張しないし、義務も感じていないようだ。
能力の秀れた知能を持っている人間が、なぜ囲いを厳重にし、権利・義務に縛られねばならないだろうか」(山岸巳代蔵)

安藤昌益のそこまでいえるモトは何だろうか? それは「直耕」概念だ。あるのは直耕のみ。ただ「直耕」それ自体を生きるべきだ、と。この「直耕」という概念は、「春には植え、夏には草を刈り、秋には収穫し、冬には蔵し、他人からむさぼらずに」みずから生産するといった生き方を意味するにとどまらず、宇宙自然の営み自体が万物(穀物)を生みだす直耕と、穀物の精である男女(ひと)の直耕が人間の身体や心を作るのだから、「天と人とが同じ一つの直耕をし、一つに和合」するところに「真人」のあるべき至上の道を見定める思想にまで煎じつめられている。

こうした「直耕」概念は、一つから発し一つになり合っていく実顕地づくりを実践する自分らの、「と」の世界の考察と重なってくるのが興味深い。

かつて山岸巳代蔵が稲でもないし鶏でもない稲も鶏も否定した「稲と鶏」の「と」から出発して、「農業養鶏」を生みだし、それがきっかけで「一体養鶏」が誕生し現在のヤマギシズム生活実顕地に至る経緯がある。あるのは「と」のみ。「真の人間は、全行為真言真行」なのだから。 というのも「真理」に即応するとは、どちらの立場も通さない「と」の位置に立つことを意味するからだ。

安藤昌益は繰り返す。「一切の書説、皆偏惑なり」「悉く偏惑なり」「偏偏・惑惑なり」「偏惑の甚だしきなり」と畳みかける。
歴代の聖人君子らの思想は皆バカで間違っている。なぜなら一つなる「直耕」に照らすと、みな惑わされて「偏り」「囚われ」「キメつけ」の観念づけが見られその分本当(「直」)からそれているからだという。明暗・善悪の本質を知り尽くさないで、明や善ばかりを偏って唱えつづけて「直耕の衆人」を惑わしている。つまり内と外の「互性」という観点、自分らのいう「活かし合い」の実態を見落としているからだという。

そこまで言い切っている!

この辺りさきの山岸巳代蔵の弁を借りれば、「形のないものを形のあるものかのように思い込」むところに、「間違いの原因があ」るという個所だろうか。この間の自分らの文脈でいえば、「稲と鶏」の「と」の世界にあるものを、「稲」だ「鶏」だと追い求めているから、いつまでたっても、物にならないのである、と。だとしたら「と」の世界の正体は何なのか?

ともあれ安藤昌益は熱心な弟子たちに囲まれながら、無形・無感の「無停頓の律動」(山岸巳代蔵)から湧きだしてくる汲めども尽きぬ源泉に触れようと、「直耕」・「互性」・「自然の世」・「法の世」・「転地」・「活真」・「無始無終」・「真人」・「進退」等々の独自の概念を造語しつつ踏み込んでいった、いまの自分らに繋がる研究家・実行家であった。
とりわけ、きっぱりと当時の徳川封建社会の「私法盗乱」的影響を受けた発想の一切の削除から出発する究明態度こそは、そのままいまに生きる自分らの「と」に立つ思想展開の要といえるであろう。真価をそこに見る。
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