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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢 (4)

「と」からの展開(上)
 即座に具体策を提案

戦後生活がままならず心ならずも自活農業を始める中で、過去に専業として打ち込んだことのある養鶏と農業を一つに結びつけた「農業養鶏」を組み立てては自分の一町六反歩の田畑で実証をかねて実施していた。そんな稲作一年生に入った翌年(昭和25)秋、京阪神を中心に猛威をふるったジェーン台風が立ち去った後、一望倒伏田の中、一区画見事に立ち揃った稲田があった。それを見た農業普及員、和田義一が心進まぬ山岸さんを口説いて講演会などに引っ張りだした。のちに山岸会誕生のきっかけになった一挿話である。

続けて昭和29年の台風13号で宇治川が決壊し、耕地全部と自宅が3メートルを超える深さに浸水して、多数の鶏が溺死した。ところがその中で農業養鶏の形で飼われていた一五〇羽の鶏だけは、一羽も死なずに浮き上がった敷藁の上で卵を産み、生存していた!

その鶏舎は鶏糞を一回も取らずに、その上へ麦わらや病害虫のついた稲の穂などを敷藁代用をかねて投げ込んでおいたものが全部浮き上がったもので、農業養鶏の良さがこんなところで奇跡的に発見された! これほど愉快な事実はない、他の損失を償ってなお余りある収穫であるとさえ特筆している。「『何が良いやら、分からへんわな』と言うてた」(西辻誠二談)という証言も残されている。

それにしても、もし台風の被害がなかったら山岸会は誕生しなかった!? それが周囲から要請され「木切れを拾い集めて鶏舎を建て、その日食べる米を売って雛を育てる」熱心な有志が生まれるや否や山岸さんは、かねてから用意していた現在の山岸会の趣旨・方法についての成案文を提示したのだった。

先述した理想に直結する具体的な「決定的方法」がすでに山岸さんの中にあったのだ! 「と」からの展開が想定内に描かれてあるのだ! 他からのお声が掛かる掛からないに関係なく、即座に具体策を提案できるところがヤマギシストたるゆえんだろうか。

第一回「特講」開催一年半前に綴られた「病災は内より」は歓びで満ち溢れている。
「私は二百年後を目指して、青年時より理想世界の実現を計画し、近年その方法について書き綴っておりましたところ、私の有形物の減耗するに反比例して四囲の状勢が好転、奇しきまでに刻々に、それを具現化するに即応する様相に展開し、その日の近いことと確実なことが明瞭となりました」

ここにこそ先の農業養鶏から一体養鶏への動きへ、しかもその一端を形はまだまだ個々別々ながら一体の考え方でミカン作業を一体作業へと進ませていくものがあった。

「養鶏から入った人も今は養鶏を超え、唯々理想世界の構成員を育て護る仕事に熱中されています」と、必ずそう成ることを見ての発言だった。しかし反面この時期山岸さんは、我が田へ水を入れる即ち養鶏で儲けようとする人に、百里先の水源地工事に誘うような、その間の通じ合わなさにも直面していた。
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