FC2ブログ

自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考 (1)

この間「備忘録」を41回まで書き継いできた。そこでは外からの借りもの受けもの知識に依らないで、私のなかの「心の琴線にふれるもの」を足場・手がかりに自分自身が「人と人との繋がり」の世界に躍り出るまでの道筋をくり返したどってきた。
としたら次はおのずと、「と」に立つことではじめて見出された「人と人との繋がり」の形態で現に行われていることそれ自体がテーマになってくる。

そんな折、青木新門さんのブログに先日あった一文だ。
4月13日(月) 曇り時々晴れ
明日上京する新幹線のチケットを受け取りに富山駅まで行ってきた。「場の研究所」の清水博先生の講演を聴くために「親鸞仏教センターのつどい」へ出席することにしたからであった。
7月5日に帯津良一先生と「場の養生塾」で講演と対談をすることになっている。なぜ、こんなに<場>にこだわるかといえば、スピリッチァリティという現象は<場>からしか生まれないと思っているからである。大無量壽経の「光顔巍々」も、親鸞の「二種の回向」も、縁起の<場>なしには成り立たない。この<場>の理解なしには親鸞の『教行信証』は理解できない。なぜなら親鸞の主著である『教行信証』は二種の回向というスピッチァルな現象を言葉で顕そうとしたものだと私は思っているからである。遠足前日の幼稚園の園児のように、そわそわしながら<場>のことを考えていた。

なるほどなあ。自分らも日頃ヤマギシの「村づくり」とか「実顕地づくり」と呼び習わしているものの実態を、「場」とか「場所」の観点から眺めるのも面白いかも知れないと感じた。

たとえば養鶏のとまり木(棲架)が浮かんでくる。鶏舎の後方に設営された一二〇羽前後の鶏が五列に並んで安眠できる移動式のとまり木(棲架)のことである。そこでは一羽一羽の適応・好みの「場」が得られるように少しづつ高さが違うように設計されたとまり木(棲架)のことを「場所」になぞらえられる。さながら実顕地という「場所」で、各自各自の持ち「場」に専心没頭するイメージだ。

かつて次のように諭されたことがある。
「ヤマギシズム実顕地では人間が幸福に生活する根源的要素が、織り込まれ組み入れられあるいは培養されているわけなのです。この要素は実顕地の内部にのみあるのでなく、山岸会や試験場、研鑚学校等のイズム運動全体の中に仕組まれているのです。
真実の人生とは何か、ヤマギシズム生活とは何かについて、わからないことがあり疑問があっても、その未解や疑問をそのまま棚上げして実顕地生活をしておれば解決されていくわけで、厚かましい言い方ですが、実顕地に居りさえすれば良い、そこにいる間は、心をおいている間は見込みがあると申し上げたいのです」(「前涉行程論Ⅱ」)

当時は実顕地に住み始めて2、3年目の頃。「実顕地に居りさえすれば良い、そこにいる間は、心をおいている間は見込みがある」との個所で「ゴキブリも居るよ」と皆で笑い転げた記憶がある。あれから40年、さきの文章は次のように結ばれていた。今も万感胸にせまるものがある。

「真の人間になる場として、またそうなった人間の思う存分の遊び場や働き場としてある実顕地を活用するために、その観点からもっと見直してみる必要があると思います」
関連記事
スポンサーサイト



PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する