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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(5)

「と」からの展開(中)
 一人だけ解ればいい

たとえばその間の通じ合わなさを第一回「特講」開催(昭和三十一年) 半年前頃に「難解な私の言動」と題して次のように記している。

「私の云うこと、書いたもの、行いの殆どが、殆どの人に、不可解に終ることを知っています。御忠告も頂きますし、反省もし、また結果については特に注意深く神経を針にして感じ取っているつもりです。文章に、対話に、講習、講演会等に、対者の大部分が、否、全部の人が解らないとおっしゃいます」

「田や持ち物は加速度的に失くなりますし、借財と不義理(既成社会で云う)が重さみ、身動きも出来ない現状です。儲かる鶏を、自分で飼わずに貧乏しているから一見、狂態に見えるでしょう。
この事実を見て解りますか。解らないでしょう。こんな、目に見えることさえ解らないのですから、無形の、しかも下手な話が解らないのは当然です。これが正解出来る頭の持ち主が、そうザラにあってはたまりませんよ。こちらより上等頭でないと解けない筈です。それならそんなムダ話は止せよと叱られます」

「九九九人が解らなくとも、一人の人に解ろうとする端緒を掴んで貰えば、それで大成功と思って初めからそれ以上を期待しません。物を求める人に、かえって心の世界に主力を傾けて述べるのですから、大分喰い違いが出来るのです」

そしてモドカシさのあまりその年の十月に兵庫県明石市で開催された山岸会第二回全国大会で、「どうすれば私の言うことが分かって頂けるのでしょう」と題した賞金一万円の懸賞問題を出題するに至る。
どうしても出題項目について深く正しく知ってから実行しなければ、如何に努力しても絶対に成り立たないからだという念いからの真情吐露だった。損をさせては申し訳ないとの気持ちからだ。そして必ず大儲けして頂けるようにと「特講」開催にまで踏み切るのだった。

一般的にもいえることだが、理想と現実が相矛盾する原因はほとんど「手段を目的のように取り違えている」ところにみられる。だとしたら、みんなの幸せ(=目的)のための手段(=養鶏)をやっている、そこのどこが取り違えになるのか?
そもそも「目的をはっきり知る」とは? 「養鶏は手段である」としてやるとは? つまり何を「やる」ことなのか? この問いは、金や名こそ最大のものと思う人には今なお難解な言動であり続ける。

多分ここでの真意は「チャラにしよう」という提案だ。いったいなにを? 意味は、帳消しにする・清算する・水に流す・なかったことにする・元の状態に戻す・リセットする・白紙に戻す云々なんだろうが……。

そしてなんとか養鶏で儲けたいとする人を前に「卵を産まぬのが幸福ですわ」とニンマリ笑う。一方では「一日に二、三個の卵を産ますことができると言われても、これを不可能事と一笑に付さず、一つの実現できる夢として見る若さが欲しい」ともいうのだ。    
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