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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(11)

先日5月19日付の朝日新聞朝刊「オピニオン」ページに、社会学者の見田宗介さんのインタビュー記事『歴史の巨大な曲がり角』が載っていた。冒頭のリード文では、次のように見田さんの論点が紹介されている。

「深刻な環境問題を抱えつつも、経済成長を求め続ける─―。私たちの文明が直面する根本的なジレンマに対して、日本を代表する社会学者・見田宗介さんは「ならば成長をやめればよい」と明快に答える。しかも、そうすれば今よりもずっと幸福な社会が訪れる、とも。一体、どういうことだろうか」

見田さんと自分らヤマギシストとの関わりは古い。1972年にイズム運動誌『ボロと水』では鼎談「牆壁なき世界に向けて」に出席してもらったり、最近では著書『自我の起源』からの一節「インドのバナナの少年」の話を研鑚学校Ⅲでの研鑚資料として活用させてもらっている。

見田さんの未来の社会構想、(交響するコミューン・の・自由な連合)の可能性を探る理論創造への仕事は、一貫してブレていない。つまり現代社会をたんに否定するでなく、そのさきの、矛盾と限界とその可能性としての「転回」していく必然を指し示してくれるところに理念創造の生命が流れている。そこが魅力なのだ。

「近代は時間や空間や価値の、無限という病に憑かれた時代」であり、「有限であることを正視するところから近代を超える思想の問いははじまる」という。

例えば『現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来―』(1996年刊・岩波書店)では、幸福な社会への道筋は、情報化と消費化の力によってだとする。なぜ? 消費化は本来、生産至上主義からの解放であるし、情報化は本来、脱・物質化であるからだという。

その一例として、「消費社会」とは豊かになったあとのあるべく社会という意味だとして、現代社会での必要労働は週に10時間で充分だとするフランスの社会学者の説を紹介して

「ある共同体の話で、そこでは労働が強制されない。農業や牧畜、本の出版もしていますが、働きたい人だけが働く、ということで成り立っています。それを聞いたある人が、そんなうまい話があるものかといって、入会し、みんなが仕事をしているのを尻目に、好きな釣りばかりしていたそうです。十六日間釣り三昧の生活を送ったところで結局退屈になってしまい、仕事をしたくなったらしい。……ほとんどの仕事は、やりたい人がやると埋まるんです」(『二千年紀の社会と思想 2012年刊』)と、働かなくても食べられる社会を指し示す。

イズム運動の先人Tさんの面影が浮かんでくる。

それでは見田さんの「ならば成長をやめればよい」と明答する根拠は何か?

それを最近1000年間の地球上のエネルギー消費量の変化や生物学の「ロジスティックス曲線」からの考察を加えて説明する。一般に生物は、環境に適応したことで個体数が増え、続いて爆発的な増加を遂げたあと、環境の限界に直面して横ばいの安定期に入る。地球という有限な環境化での人間も同じことではないかと。
そして、成長に依存するシステムと心の習慣から私たちは脱していないところが問題なのだという。

「今、私たちは、人間の生きる世界が地球という有限な空間と時間に限られているという真実に、再び直面しています。この現実を直視し、人間の歴史の第二の曲がり角をのりきるため、生きる価値観と社会のシステムを確立するという……わくわくする宿題」なのだともいう。

こうした見田さんの「有限なものを無限なものであるように幻想することをとおして有限に終わるシステムでなく、有限なものを有限なものとして明視することをとおして無限に開かれたシステムの方へ、それは転回する革命であるはずである」(『社会学入門』2006年刊・岩波新書)といった「有限性」についての言説が急にリアルに感じ始められてきたのは、2011年の3.11東日本大震災後である。

潮目が変わってきた。価値観の問い直しが無意識にはじまってきている。 
これまでの環境、公害、資源、人口問題といった自然からの警告現象を「なった先で」で対処する考え方から、そうした現象を生みだす成長依存的な社会構造なり、有限の地球資源を食いつぶし合う個々別々の対立した考え方があぶり出されてきたのだ!
 「なった先で」の技術革新や高度化や大規模化などの“対症療法”も、もはや「限界」を迎えているのだと。

そこで空間・水域までも画線を設けたがる征服欲や支配欲、優越感情、祖先幾代からか刻まれた所有欲など際限なき(=無限性)心の欲望に代わって、それ以上の使っても使っても実質減っていかない「無限の豊かさ」に乗り換えていく道筋がいま切実に求められて来だしたのだ。
さきの『現代社会の理論』からくり返し見田さんは成長しない社会での明るい可能性を語る。

「自由と贅沢な消費とを何よりも愛した思想家バタイユは、至高の贅沢として『奇跡のように街の光景を一変させる、朝の太陽の燦然たる輝き』の体験を語っています。生きる歓びは、必ずしも大量の自然破壊も他者からの収奪も必要としない。禁欲ではなく、感受性の解放という方向です」

「ならない先のもの」の場所とは、「範囲」とか「限界」とか「調正」という理念概念が真に生きる場所であるとした。そこはまた、物心共に満ち足りた、かつ必要以外に物を欲しがらない「必要限界」が滲み出る場所でもあるにちがいない。
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