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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(15)

ここで再度確認しておきたいのは、有限性に目覚めるとは地球資源・環境・エネルギーなどの有限性に目覚めて抑制・対処していくことではなく、そうした自然からの警告をとおして、現象に現れる前の「ならない先のもの」の「無限性」に真に目覚めることにあった。

地球資源の有限性問題の根本原因は、万物万象は共生だとする一体観を知らない個々別々の対立した考え方なり、そういう考え方からくる「社会構造」であることはいうまでもないだろう。
それはまた心物豊満の恩恵に甘んじているだけにとどまらず、使っても使っても減っていかない自然の理に適応した「本当の豊かさ」がかくも豊かであることを実証する、従来の「社会構造」に代わる一歩踏み出す場所づくりについてであった。
それゆえもちろん限りある資源を大切にすると同時に、限りない資源の開発にもっと力を注いでいきたいのだ。

では、限りない資源の開発とは何なのか?
しかしこのテーマは、先に述べた「欠乏期を予想して貯えたり乏しいが故に奪わんとする個別観からくる人間の偏狭な惨めったらしい精神」からではぜったい見えてこない。
「世はまさに逆手なり」(『知的革命私案』)ともいう。先のバタイユの言を引けば―

「個的観点から出発すれば、問題は第一に資源不足によって提起される。もしも普遍的観点から出発するならば、問題は第一に資源過剰によって提起される」(『呪われた部分』)

あれは1989年5月3日の「ヤマギシズム散財まつり」だった。テーマは「放してこそ豊か」。そして「放してこそ豊か」と大書した高さ四メートル幅五〇メートル近い横断幕をやぐらにくくり付けて、その上から百俵分の餅まきをしてみたことがある。壮観だった! 

しかし当時は何がいったい「放してこそ豊か」なのかサッパリ見当がつかなかった。ただただ自分らの心に強く刻みつけたい一心からだった。もちろん「誰のものでもない」という理念は知っていたのだが……。

そうなのだ。たったの「放す」という知的実践ひとつから、働かなくても生産しなくても現状そのままその場で即座に実質豊かになる具現方式があったのである!? 
「誰のものでもない」というところから自分の考えを「放す」のだ。

これこそ限りない資源の一つ、というよりもっとその源泉の、人間ある限りなくならない、人間自体から湧き出てくる「自発力」というか万物万象は共生だとする一体観に繋がる「やる気」の現れではないだろうか。
それは誰の中にも無限大に潜在して、開発さえすればどんどん湧き出てくる「本当への願い」そのものではないだろうか。
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