FC2ブログ

自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(16)

そうした「放してこそ豊か」への最初の一歩をどのように踏み出すのか?
出発点はまさに「実践」であるのだ!

今書店に並ぶ、『資本主義の終焉と歴史の危機 』 水野和夫・『里山資本主義  日本経済は「安心の原理」で動く』藻谷浩介・『人類が永遠に続くのではないとしたら』加藤典洋・『成長の限界 人類の選択』 デニス・メドウズ・『ツナミの小形而上学』ジャン‐ピエール・デュピュイ等々の書に多くの読者の関心が集まっている。

なかでも3.11の東日本大震災を受け日本語版への序文を付した『ツナミの小形而上学』に引用されている一つの寓話が興味ぶかい。
要約してみる。

ノアは、やがてやってくるかもしれない破局について警告しているが、誰もまじめにとりあってくれないので、もう疲れ切っていた。
ある日彼は、古い粗衣を纏い、頭から灰をかぶった。これは愛する子どもや妻・夫を亡くし、哀悼する者だけ許される行為であった。
人々は、好奇心から口々に質問を始めた。
「誰が亡くなったのですか?」
ノアは、彼らに答えた。
「亡くなったのはほかならぬあなたたちだ」と。
ならば、その破局はいつ起きたのですか、と人が尋ねると、
「明日だ」とノアは答えた。
つまりこれから起こる破局を、すでに起こったものとして表象したのである。すると人々は狼狽して、ようやくノアの警告に聞きいった。
そしてノアは、こう言った。
「私があなた方の前に来たのは、明日の死者を今日のうちに悼むためである」と。

あの柳田国男の三十年先の隣村の火事を発見するために、今から杉の木を栽える挿話(イズム実顕地づくり考10)をほうふつとさせる。

そしてそこから自分らもまた、
「これまでの環境、公害、資源、人口問題といった自然からの警告現象を『なった先で』で対処する考え方から、そうした現象を生みだす成長依存的な社会構造なり、有限の地球資源を食いつぶし合う個々別々の対立した考え方があぶり出されてきたのだ! 『なった先で』での技術革新や高度化や大規模化などの“対症療法”も、もはや『限界』を迎えているのだと」(イズム実顕地づくり考11)
考察して、
「ならない先のもの」
「有限性に向き合う」
「限りない資源の開発」
といった概念化をとおして、そこに「なぜか滲み出る人の情で実顕地という場所が潤ってくる」(イズム実顕地づくり考12)といった「心に感じる世界」を見いだしてきた。

しかしながら、こうした自分らの「心に感じる世界」をまず先に本当のあり方にもっていこうとする考えは、先の学者・専門家の優れた諸説には見当たらないものだ。
確かに自分らもこの間、これら学者・専門家の優れた諸説にたくさんの啓発を受けながら、現行の社会に代わる新しい仕組み・場所像を素描してきた。
けれども絵に描いた餅と本当の餅の異いはどこにあるか? 絵に描いた餅を如何に褒めようとも腹は太らないところにある。諸説は頭の中で描かれたものだが、場所づくりへの出発点は、描くだけではなく、まさに「実践」であり、その方向へ一歩踏み出してこそ次々と先へ開けていくものだからだ。

ここに他の諸説と決定的に別れる理由がみられる。次元の「転換」が、「割り切り」が切実に求められている。そのことを自己へと徹底するのだ。

「私どもは、こんな混濁・乱行の世の中で暮らすことは不得手で、陰惨なことは嫌いですから、見切りをつけまして、明るい、正しい、暖かい昼の世界を引き出す計画を樹て、実行に着手したのです」(知的革命私案)

自分らの舟を進めるための艪は、
「この世の中には見えない感じない世界があり、それがもとになって心に感じる世界があり、心に感じる世界がもとになって目に見える現象界がある」として、

まず心に感じる世界の解決を、それには心の底では絶対崩れ変わらないものを見いだして、そこから新しい目に見える場所が造成されるという「後先」を真面目にたどってみようと思う。
関連記事
スポンサーサイト



PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する