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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(17)

「目に見える世界は、全部目に見えない世界の現れ」という。本当か?

「×月×日
私の田んぼの広さに驚いた。私はまいた覚えのないのに、行く所、いたる所に、麦、菜種が色づき、うれている。頼んだ覚えもないのに、見も知らぬ一体の家族たちが、麦の収穫を始めていた。私は突然麦刈りがしたくなった。畔端にあった鎌を手にして黙って刈り始めた。叱られるかな、と思っていたところ、〝すみませんね〟とニコニコしている。『昼食を食べよ!』と強要される。『助かりました』、『ありがとう、ありがとう』と、また夕飯を強要され、風呂と座敷と、柔かい夜具と、寝泊りまで強要される始末。世謂、わが家にいたとき、たれからもお礼を聞いたためしがない。時々ブツブツ言われた覚えはあるが──」(『私の旅日記』1957.7)

私は田んぼの広さに驚いたのではなく、私「の」田んぼの広さに驚いたのだ?
自分の考えを「放す」だけで、とたんに自分の中に本来ある豊満な広い世界が現実に映るのだ!

ある日の研鑚会では次のようなテーマを研鑽したことがある。
○共同と一体
○「そうならなかったら」との条件つきと、「今そのままでも良し」のものと。
○囲いがあるか、ないか。
○有限と無限。

物質偏重の観念に立つ人と人、人と自然が個々別々に離れた今の対立社会の〈共同〉の害毒にどっぷりつかりながら、〈一体〉について研鑽するとはどういうことなんだろう? 頭での理解でなく、自分の心でわかるとはどんなことなんだろう? 

「今そのままでも良し」なのに、なぜ世界急進Z革命なんだろう? いったい何が良しなのか? 現状そのまま、その場で理想社会に融合できるのは、なぜなのか?

そうか、それで従来の「欠乏・欠如・否定」の自覚から「そうならなかったら」との条件つきの革命運動がことごとく失敗に帰するゆえんがそこにあったのだ!? 「欠乏・欠如・否定」が問題になるのは、個々の「囲い」の中に於いてのみなのだ! 

曰く「腹が空いたから食べる」「疲れたから休む」「汚れたから洗う」「足りないから増やす」「狭いから広くする」「遅れたから急ぐ」「壊れたから直す」「痛めたから治療する」「病んだから癒やす」「下手だから上手に」「暑いから涼しく」「寒いから暖かく」「悪いから良くする」等々。

たしかに「狭くて不便だなあ」といった考えなんて百%主観的だなあと省みて思う。ふだんはほとんど皆御都合主義でわれよからんことが基本になっての、心のこもらない反射的観念ですごしていることに気づかされる。

そこで自然や人間間の調和の中にこそ、人間もまた良く生きられる理があるとするならば、そうした実態の中に生きる自分らはどうしたらよいのだろうか。
例えば「腹が空いたから食べる」というが、「腹空いた」と「食べたい」は本来別の世界の出来事ではないのか? そこのへだたりを無理やり「ねばならない」と混同・短絡・突っ張るところに不幸や間違いや紛争が生じる根本原因が見てとれるのだ。

ことわざに「武士は食わねど高楊枝」という。なるほど常識観念からはやせ我慢のように映るのだろうが、「放して」食べるという実践的な研鑽態度から眺めると、突然に豊かな世界が開けてくるのだから面白い。
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