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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(7)

目的と手段(上)
 絶対の「必要行程」とは

農業養鶏から実顕地(社会式)養鶏への進展は、今までの農業養鶏の規模拡大や延長ではなかった。それは理想社会を造るための前渉準備過程であり、殿堂を築くための足場であり、仮屋根であり、さそい水的役割であったということだ。ここで見逃してはならないことは、農業養鶏が実顕地(社会式)養鶏の足場や仮屋根であったのではないという点だ!
どういうこと?

じつはここにこそ、社会全体から見たら一小部分に過ぎない養鶏に限らずその他すべてに相共通する「目的を実現する」ために絶対の「必要行程」が見出されるのだ。

今までも理想とか幸福社会とか幾千年前より幾多の人々によって唱えられ、あらゆる努力と犠牲が払われながらも今なお実現していない理由の一番をここに見る。単刀直入にいえば、現代社会を肯定のままで、つまり抜本的に一般社会通念の殻を破らずに地続きにそのまま安易な気持ちで態勢を整えないでやろうとするところに、様々な軋轢が現象する因がある。そして「趣旨はいいが、現実はなかなかそうはいきませんネ」と、その不足の矢は必ずといってよい程、一方的に他に向かうのが今の社会に住む人間の通有性だ。
さきにも触れたが、理想と現実が相矛盾する原因はほとんど「手段を目的のように取り違えている」ところにあった。

この辺りを山岸巳代蔵はいう。
「農業養鶏やる場合にでも、何やる場合にでも、百姓するのでも、商売するのでも、教育でも、子供を育てる場合でも、どんな場合にでも、寝る場合にも、また食べる場合にも、或いは映画を見る場合にでも、散歩する時でも、やはり、すべてが、みんなが一つになって仲良う楽しく繁栄していく、と、この目的のために、またそういうあり方で進むこと以外にないと思うの、道はね。
ところが、これは自分ひとりでない――みんなそれだと思うんですが――ややもすると、この目先のいろいろのものに拘泥して、案外、方向が違っていって、手段を目的のように取り違えるのが、ほとんどの、現在の、現在までの世界の人達の、どうにもそういう社会が出来なかった原因だと思う」

そして今や「なるほど、目的は鶏でない」と気づく人が多くなってきた、そんな「気持ち」の高まりが醸成されてきた上での実顕地(社会式)養鶏の発表だった。

いったい「目的を実現する」ための何が見出されたのか? それは自分自身の内部に起こったハッとする発見・転換というリアルな体験のことだ。例えば宗教学者・島田裕巳さんは「特講怒り研鑽」体験記で、その瞬間「体の奥から何かあたたかいものが込み上げてくるようにさえ感じられた」という。

しかもそれが通りすがりの一過性のものでなく、「自分のもの」として、あの「ドラえもん」の『どこでもドア』のようにその時その場で取り出せるところがミソなのだ。
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