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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(8)

目的と手段(中)
その汽車にはその鉄路を

先にイズム運動史をふり返りながら、農業養鶏から実顕地(社会式)養鶏への進展というか次元の「転換」にふれた。それは理想と現実が相矛盾する原因は、ほとんど「手段を目的のように取り違えている」ところにあるとして、まず農業養鶏の普及がさそい水になった。そこで寄ってきた人たちが「特講」などを通して、「なるほど、目的は鶏でない」との気づきが生まれた。次にそこで見いだされた「気持ち」の高まりが醸成されてきた上での実顕地(社会式)養鶏の発表だった。しかも今度の実顕地(社会式)養鶏とは、実顕地を造るためのものではなく、実顕地を造ってからのものだった! 実顕地という場が造成されて、その場の中でこそ活かされる養鶏法であった! 必然それまでの実顕地に誘うためにあった農業養鶏は、会の運動方針として国内普及停止とされた。

当時(昭和37年頃)今ひとつ実顕地づくりへと踏み切れないでいた多くの農業養鶏をやられていた会員さんは、梯子を外されたような状態になり、「実顕地養鶏に移行するまでの段階として、農業養鶏試験舎は必要ではないか」といった提案もなされたと聞く。
以前筆者も、そうした二者択一的な、あたかも「踏み絵」の如く実顕地づくりへと誘う運動方針から、多くの会員さんが離れていったことに疑問を感じ、実顕地造成の世話係に尋ねてみたことがある。(『前渉行程論2』1973年) そこで諭されたのは―

「養鶏法を取捨選択しているのではなく、真目的への最短コースとして現時点で何に力を入れるかということです。ともすれば養鶏で道草を食って目的の方へ行けないかも知れない。またそういう実績が多かった実状から、農業養鶏という名の個人養鶏を普及することは停止しているのたど思います」

それ以来「真目的への最短コース」という考えが事あるごとによみがえってくる。自分や相手の現状を考慮するあまり段階的にやろうとしたことがその段階でとどまってしまう結果になって、次の段階へ入れず足踏みしている状態が今なお見られるからだ。

今まで理想社会が出来なかった原因が手段を目的のように取り違えるところにあるとするならば、それまでの旧態依然とした手段と目的概念を一変して、手段=目的とする革命だった! その人が目的をはっきり知り、そういう気持ちになって、そういう目的へ急速に近づいていける方法を実行できる人が現れてくるのが絶対の必要条件とされるのだ。

それは「その汽車にはその鉄路を」と鉄道経営にも譬えられる。偉大な運搬力を持った汽車を走らすには、鉄路が敷設され、安全な保線が大勢の人達によって確保され、またヤマギシズムの方向へと運転できる操縦士にかかっているからである。
「実顕地を造るためのもの」と「実顕地を造ってからのもの」との次元の〈転換〉を、混同することがないような研鑚力が問われるところだ。
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